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漢方万華鏡

再開しました。道語を採集し記録する場所になっています。

Posted by seikado

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修養論

「俗人は、欲をほしいままにして”礼・儀”にそむいているし、また気を養わないので天寿を保てない。
こうして理と気と2つを失うことになる。
仙術の士は気を養うことばかりで”理”を好まない。それゆえ”礼・儀”を捨てて務めない。
頑迷な儒者は”理”に偏って、”気”を養う道を知らないので天寿を保てない。
この3つは、ともに君主の行う道ではない。」 養生訓 貝原益軒 

儒者は礼儀に努めて、修身の法を行う。しかし勉学には勤しんではいても、気を養う具体的な法には欠けるため、生物としてかなり不健康な状態を強いられる。不健康な君子などおそらくありえないように、なんらかの体育を行わないと、完成は難しい。

仙術の士は、養生を務めて、自身の気を養うことばかり。その為に礼儀が軽視されがちとなる。礼儀が失われると、結局は人の世で暮らしてゆくことが難しい。その場その場でピタリと自分を当てはめて生きていく柔軟さや作法に欠けるからだ。それは心の煩いや愁いや怒りのもとになるわけで、不養生に繋がる。礼儀は養生を実行するための知恵でもあるのだ。そんなものはいらん、と厭えば山奥に隠居して暮らすということになるが、そんな者はまだまだ隠者としては下の下で、静かな所でこころが静まるのは当たり前の話で、なんら凡人と変わりがない。むしろ本当の隠者とは都会のような混沌な中でこそ心静かにたたずむことができるものである。それを可能とするのが結局は礼儀である。

養生はここで修身と同じところに繋がると僕は考える。 そして我々、俗人はその両方に欠けているというのだから、なかなか痛烈な批判である。 ちなみに、その両方を高次元で実現したのが王陽明がある。王陽明は初め道教の修法をおさめ、仏の道で禅定を、最後に儒の道に入り、大成することができた。興味深い人物である。

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