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漢方万華鏡

再開しました。道語を採集し記録する場所になっています。

Posted by seikado

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やまいに、人生に対して主体的であり続ける

1950年代の岐阜県白川村における健康観に関する資料をお借りしました。


「民間医療の成立基盤-白川村の民間医療-」浅野弘光著

  『濃飛の文化財』199131号 岐阜県文化財保護協会



今とは違い、毎日お風呂に入れるわけでもなく、シラミがわくのも当たり前の衛生環境のなかで、

それでも、みなが健康に過ごしていたという。

とはいえ、結核や天然痘の脅威から免れることはできませんから一度、猛威に晒されればもうそれは「天命なのだ」として安らかに受け止められていたそうです。まぁ・・・しょうがないですもんね。民間医療しかないような社会にあっては、おそらくほとんどが助からなかったことでしょう。なのでもうそれはそれ。つべこべいっても仕方がないという。でもだからといって虚無主義になるでもなく、自己の健康管理は主体性をもって行われていたという。


浅野氏の大変考えさせられる指摘があります。


「過去の医療が、自分の身体は自分で守るという自立した医療文化であったのに対して、現代の医療は、科学による管理的医療文化ということができる」と。


現代の医療水準という高見から見下ろせば、甚だ医療資源に乏しい社会に見えます。高度は医療機器も抗生物質もありません。しかしというべきか、だからというべきか、白川村では医療の根源を「環境になれる身体づくり」に置き、その身体作りには「節度をもって楽しく働き続ける」ことを大切にしたという。つまり養生を主としていて、熱が出たら下熱剤だなんていう考えではないわけです。


現代の医療社会は、患者という存在がいつしか「お客様」になってしまい、患者側も「お金を払えば治してもらうのが当たり前」になっている。これではどちらも受け身になりやすく、主体性がありません。自分の身体だというのに病気になったのは誰かのせいにし、そもそもどうして病になったのかという因縁に目を向けず、天を恨むか、社会を恨むかするしかない人たちがいますが、医療社会の構造上からも仕方がない事なのかもしれません。彼らは科学ならなんでもできると未だに信じ、病院で治せないものがないと思い込んでいる。思い上がりとしかいいようがありません。


ただ漠然と長生きしたい、長生きが善という死生観もとても貧しい。延命の是非が土壇場になって問われること自体、我々が死生に対する主体性を失ってしまったことを暗に示しています。死についての解像度が低いということは、自分の生についても低い解像度でしか捉えられていないとも言えます。我々は死を忌避し、遠ざけると同時に生をも遠ざけ、薄めてしまっている。「生きがい」が要る訳です。文明に対して「未開」だなんていう言葉を使う場面があります。しかし、文明化して過去の世界観や死生観、因習などから自由になったと言えば聞こえがいいが、その実、天地から切り離されて右往左往しているのがいまの私たちなのだということもできます。


豊かな医療文化とはいかなるものなのでしょうか。健康観とは、世界観でもあり、死生観であると思っています。「治せないやまい」の範囲は、その土地、その時代、その文化の違いに依存していると言っていいかもしれません。すべてを治そう、治せるという世界観の中で生きることはもしかしたら、すごく息苦しくて救いがないのかもしれない。そもそも病とはなんなのか?改めて問われるべき価値があります。


技術が進歩し、「治せる病の範囲」が拡大するのは、人類にとって紛れもなく救いでしょう。人類にとって病が災厄でしかないのならば、もちろん僕もすべての不幸がなくなってほしいと願っています。

しかし、人間の健康は、内なる世界の安心がなくてはならない。人間自体が主体性と自立心を失っては、医療が進歩しようが人間という存在が救われることはないような気がします。CTもMRIもなく、鍼灸などの伝統医療もない社会。いまよりも簡単に人が亡くなってしまう社会であっても、いや、それゆえになのか人々はやまいに人生に対して、主体的であり続けることができた事実がありました。そのことの意味を味わいたいと思います。


一資料だけから、窺い知れることではありますが。大変、興味深い資料です。


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  • te

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